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銀行員・サッカー選手を経てスペイン移住/留学サポート事業 佐藤陽介さんインタビュー

まえがき

私たちIESE日本人在校生は、魅力的な生き方をされている方にインタビューをし、自分たちのキャリアを見つめ直す機会とし、また日本の皆さまにも考えるきっかけを作りたいと考えています。

今回は、サッカー選手として高校三冠を成し遂げたのちU18日本代表候補にも選出され、現在はバルセロナにて留学サポート事業を運営する佐藤陽介さんにお話を伺いました。

佐藤陽介さんについて

国見高校では高校総体、国体、サッカー選手権大会で優勝し高校三冠を果たす。青山学院大学にはU18日本代表候補に選出、卒業後みずほ銀行に就職するもサッカーへの情熱が再燃し当時JFLのV・ファーレン長崎に入団、キャリアの最後にはスペインリーグに挑戦した。現在は日本からスペイン留学を目指す学生向けのサポート事業を行う。

中学・高校時代について

 -中学時代はどのような環境でサッカーをされていたのでしょうか?

中学では地元の中学でサッカーをプレーしていました。当初はサッカーでそこまで上を目指したいというわけではなかったんです。練習も週2~3回くらいでしたね。ただ、身体能力的には自信があって、品川区の選抜には入っていました。小さい時から動くのが好きで、教室の後ろで勝手にジャンプをしているような子供だったので、身体能力には自信がありました。今でも育成年代の選手にはジャンプトレーニングは重要だと言ってます笑。でも、技術的には上手い訳ではなかったので、それが後々のキャリアでは苦労した部分にはなるのですが。。

 -高校では名門 国見高校に進学され、当時の国見のメンバーは大久保嘉人さんなど後にプロで大活躍するメンバーが揃っていましたが、練習の厳しさや雰囲気はどうでしたか?

とにかく周りの選手の能力が高かったです。国見というとロングボールで縦に速いサッカーなのでボールを扱いは上手くないと誤解されるのですが、皆とにかくボール扱いの基礎能力が高かったです。負けず嫌いのメンバーが多くて、朝練は6時10分から7時半まであったのですが、朝練前の5時から自主練をしているメンバーも多くいたそうです。もっとも、僕はそのことを卒業した後に知ったのですが笑。走りの練習としてはグラウンドまで6kmを走って往復したり、インターバル走で決められた時間以内に全員が入らないと罰走ということもありましたが、僕らの代は強かったので、公式戦が多く走る練習は他の代と比べると少なかったと思います。僕にとっては走りの練習よりグラウンドでの普段の練習の方がしんどかったです。前線からハイプレスをすることを求められるので、FWだった僕は常にボールを追い回さなければならずとにかくしんどかったんです。チームはというと、紅白戦の方が長崎県大会決勝よりレベルが高く、エースの大久保嘉人がいなくても県大会決勝で8-0で勝ちました。それくらい強いチームでした。

  -小嶺監督はどんな方でしたか?どんな学びがありましたか?

サッカーの指導者として凄みもたくさんありましたが、それ以上に教育者としての部分を強く感じました。国見に進学が決まった場合はまずは親の教育から入っていました。「国見に進学するということは、こんな大変なことがありますよ。それは親御さんとしても分かっておいてくださいね。」という感じです。それでも親御さんが預けたいと思うような人柄で、礼儀や人間性を重視していました。高卒で就職する人が多い学校ということもあり、社会に出るための人間教育を重視していたんだと思います。

ただ、人間教育だけでなく、サッカーにおいても徹底的に勝つために行動するというマインドを持った方でした。誰よりも朝早く来て、バスを運転して、指導して、対戦相手の分析をして、リクルーティングもして、、という感じでいつ寝ているのか分からない笑。その背中をみて僕らは育ったので、理不尽なこともたくさんありましたが、この人に着いていこうと思える人でした。卒業後に試合観戦に行った時に、(当時は別の高校を指揮されていた)小嶺監督に声をかけられ、「次の対戦相手のビデオ撮って分析してきてくれ」と頼まれたことがあります。当然答えは「はい!」しかないので笑、実際に試合をビデオに撮って分析結果を小嶺監督に伝えたこともあります。それくらい勝つことにこだわっている方でした。また、競争心を非常に重視していて、東福岡や鹿児島実業といった強豪校と切磋琢磨し、九州に競争心を植え付けるということもやろうとしていました。その競争心は今のスペインに近いものがある気がします。

 大学進学・就職について

-高校卒業後は青山学院大学に進学されましたよね?

はい。高校時代は、プロや実業団からオファーがあった場合は小嶺監督のところにまず話がいきます。小嶺監督は、その選手が直接プロに行くべきか、大学に行くべきかを将来的を見据えて判断していたのだと思います。実際にプロとして活躍できる選手はごくわずかで、サッカー推薦で良い大学に入れればその後も安心だろうという配慮もあったのではないかと思います。僕にプロからオファーが来ていたかどうかは正直分からないのですが、僕自身としては同期に大久保嘉人というスーパースターがいたので、自分がすぐにプロに行って活躍できるイメージがなく、青山学院への進学を選びました。

 -大学ではどのようなことを考えプレーしていましたか?

大学1年生の4月にU-18の日本代表候補に選ばれ、チームメイトには川島永嗣、今野泰幸、坂田大輔、小林大悟などがいました。その後も大学でのサッカーはとても楽しく、途中1年サッカーから離れていた時期があるのですが、4年生の時にはプロの練習に参加したりしていました。ですが、めちゃくちゃ調子が良かった大学4年の夏に大怪我をしてしまい、プロになる道は諦め、既に内定をもらっていたみずほ銀行に就職することにしました。

 -みずほ銀行でのお仕事はいかがでしたか?

僕は築地市場近くの支店に配属されました。当時のその支店はみずほ銀行の中でも5本の指に入るくらい取り扱い高が大きく、役員付きの支店長がいました。支店長がクセのある人で、ある意味国見よりも体育会でした笑。僕はというと、市場の江戸っ子の方々との対応を主にしていました。仲卸業者が次々とつぶれていく時代だったので、難しいことも多かったですが、いろんな縁にも恵まれ総じて仕事は楽しかったです。

1中学・高校時代、 大学進学・就職について 2JFL・スペインリーグ挑戦、現在のお仕事、今後について

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