日本は今後どう世界と戦っていくか
–円安の影響もあり「日本の凋落」が叫ばれています。野田さんから見て、日本の立ち位置や将来の可能性はどう映っていますか?
私も日本の底力を信じていますが、残念ながら日本は縮小の一途をたどっています。
日本は「すり合わせ」の技術に強みを持つ、ものづくりの国です。根底にある労働観が西洋とは異なります。西洋において労働はアダムとイブの原罪に基づく「罰」という側面がありますが、東洋、特に日本では仏教的な「修行」であり、生きる喜びそのものです。この価値観が「匠の技」につながっています。その結果、仕事における完璧主義が自然と形成され、世界から称賛される新幹線の清掃のような素晴らしい事例が生まれるのです。日本は「匠の国」なのです。
かつて日本は自動車とエレクトロニクスで強みを誇りましたが、後者が崩れてしまった今、自動車産業には何とか踏ん張ってほしい。個人的には、日本のロボット産業に大きなチャンスがあると考えていましたが、残念ながらここでも後塵を拝している場面が多く見られます。また、金融などの分野で日本人が世界を目指せるかというと、非常に疑問です。
これからの日本は、「文化国家」として世界でプレゼンスを発揮することが重要ではないでしょうか。ただし、単に日本文化があるというだけでなく、それが世界にどう貢献できるのかを、英語や各国の言語で発信していかなければ意味がありません。内輪向けの日本語での発信にとどまらず、世界に向けた貢献として発信していく必要があります。
-再生の可能性は、都市と地方、どちらにあるとお考えですか?
地方の衰退は激しく、我々が期待するほど今の地方には力が残っていない可能性があります。「田舎のおばあちゃんの人情」を頼りにするような情緒的なアプローチだけでは、仕組みを根本的に変えない限り、日本は衰退を止められません。
問題は、仕組み自体が中央にコントロールされていることです。その中で地方自治体が独自に取り組めることは多くありません。本気で地方創生をやるならば、大企業が本社機能を東京から地方へ移すといった大胆な動きが必要です。 そして何より、本当に地方を変えようとするなら、東京に住んでいてはダメだと思います。その土地に住み、長く腰を据えてやり込むこと。当事者として現地に入り込む覚悟がなければ、地方の再生は成し得ないと考えます。
西洋由来の資本主義と日本文化をどう融合させるか
-欧米由来の資本主義の概念は、日本においてそのまま機能するのでしょうか? 「お金を儲けること」に対する罪悪感など、根本的な価値観の違いをどう乗り越えるべきだとお考えですか?
これは、まさに私の人生をかけて追求しているテーマです。
まず前提として、我々は西洋のパラダイムの中で生きていますから、その根源にあるコンセプトを知る必要があります。西洋の思想は「人間の自由」から来ています。ヘーゲルの言う原理にあるように、お互いの自由を認めること。かつて神の被造物であった人間が、二―チェの「神は死んだ」という表現にあるように、自由を手に入れた。しかし、その自由の概念が行き過ぎ、「カラスの勝手でしょう」的な放埒な自由に都合よく解釈されてしまい、現在の格差問題や持続可能性が生まれています。
特にプロテスタントの国アメリカは「自由は神からのギフトである」という考え方が強く、「格差も神の見えざる手による差配なのだから、再分配の必要はない」という極端な方向に振れてしまっています。西洋のエリートたちはこうした歴史的背景や哲学を教育されていますが、東洋にはその機会が少ない。そのため、根本的な議論で反論ができず、西洋側も自分たちがイスラムやアジアとは異なる特異な存在であることを認識できていません。
では、これをどう日本文化と融合させるか?
西洋は「個の自由」にフォーカスし、世界を自と他で区別する「二元論」で捉えてきました。一方、アジア、特に中国や日本は「関係性」の中に焦点を当てます。自分と他者を区別しない東洋の「一元論」であり、自由よりも、既に埋め込まれている関係性の中で生きることを重視します。自然との関係も同様です。自然を客体化しコントロールする対象とみなす西洋と、人間がそもそも自然のなかに埋め込まれているとする東洋の違いです。
現代社会の行き詰まりを打破するためには、西洋を否定するのではなく、「個人の自由」と、人間は一人では生きられないという「社会的動物」としての側面、この2つをうまく組み合わせることが重要です。NTTの澤田純会長が京都哲学研究所を立ち上げられていますが、かつて、西洋列強による植民地化の流れに抗い「アジア主義」をリードしたのは日本でした。アジア主義を自分たち自身の覇権のために謝って誤用し、戦前の日本は自滅の道をたどりましたが、いま、資本主義が曲がり角にあるなか、もう一度人類の未来のために、アジア主義ならぬ、西洋とアジアの橋渡しが求められています。そこに日本の役割があると思います。西洋を否定することなく、ともに未来を作るということこそ、至善館を設立した理由でもあります。
残念ながら、多くのビジネススクールはこうした本質的な議論に関わろうとしません。私がINSEADを去った理由もそこにあります。当時のINSEADは、場所こそ欧州ですが、中身はアメリカ以上にアメリカ的な教育アプローチであり、私には馴染めませんでした。
その点、私が戦略的に提携しているIESEは異なります。IESEはカトリックの組織であるオプス・デイが母体にある学校です。プロテスタンティズムと違い、カトリックは「法人」や「地縁共同体」といったコミュニティを非常に重視します。この点は、日本の共同体的な感覚と親和性が高く、日本が世界とつながるための架け橋になり得ると考えています。IESEの元学長であるJordi Canalsの人間力は素晴らしいですし、現学長のFranz Heucampが掲げたIESEの教育理念の中核にある「Spirit of service」は、単なる職業訓練校ではなく、未来を良くすることにコミットする教育機関としての矜持を感じます。
労働は罪ではなく、喜びであり修行であるという日本の「道」の価値観。これを西洋の文脈といかに融合させるか。非常に難しいけれど挑戦しがいのあるトピックです。
-至善館では外国からの留学生も指導されていますが、価値観や背景の違いにより、相互理解が難しいと感じる場面はありますか?
やはり「ありがとう」という言葉の重み、感覚の違いですね。
「ありがとう」の反対語は「当たり前」です。自分は多くの人に支えられている、そのことへの感謝こそが一番大事であり、それが「自分の意志で責任を引き受ける」というリーダーシップの倫理につながると教えています。
日本人は「他者や自然に生かされている」という感覚を持っていますが、これがキリスト教圏の人にはなかなか伝わりにくい。彼らの根底には「自由」があり、神や他者と「契約を結ぶ」という考え方で生きていますから。 ただ、突破口はあります。例えば南米の先住民は、元々神道に近いアニミズム(精霊信仰)を持っていましたが、歴史的に西洋によって文化が書き換えられてしまった経緯があります。DNA的には、必ず「生かされている」という感覚が分かるはずだと思うのです。また、アフリカには「ウブントゥ(Ubuntu:私は、私たちがいるからこそ、私である)」という言葉があります。これも日本の感覚に近いアニミズム的な思想であり、こうした他地域の土着的な思想を補助線として使うことで、日本的な「生かされている感謝」を理解してもらう良いきっかけになります。人間がまったく非力であることを感じる「大自然に抱かれる」といった経験は、この「生かされている」感覚を呼ぶ覚ますきっかけとなります。
関連記事