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謙虚な心とリスペクトの精神で与えられた「枠」を超えよ―APCE(AGC Pharma Chemical Europe) CEO 門倉さんインタビュー

私たちIESE日本人在校生は、自分たちのキャリアだけでなく、将来のビジネスリーダーとして日本の未来のために何ができるか考えていきたい、また日本の皆さまにも考えるきっかけを作りたいと考えています。

今回は、AGC(旭硝子)、米ダートマス大学 Tuck ビジネススクール、ジョンソンエンドジョンソンを経、現在は、AGCが買収したバルセロナのAPCE(AGC Pharma Chemical Europe) 社のCEOを務め、PMI(買収後の統合)の過程でビジネスモデルをCMO(医薬品製造受託)からCDMO(医薬品開発・製造受託)に転換することに成功した 門倉さんに、「異文化環境でのリーダーシップ」、「買収した海外企業をどう統合させるか」といったテーマでインタビューさせていただきました。

APCE(AGC Pharma Chemical Europe)について

旧社名:Malgrat Pharma Chemicals, S.L.U.。2019年にAGCがドイツ医薬品大手のベーリンガーインゲルハイムから買収。AGC社はライフサイエンス事業を中長期的な戦略の柱としており、医薬品の素となる化合物や原薬の開発・製造の受託(CDMO)市場、特にCDMO世界市場の35%を占める欧州市場を重要視し、グローバルにM&Aを進めている。
参考:https://ps.nikkei.com/catalonia2105/2.html

門倉さんについて

Q. 簡単にこれまでの経歴と、現在の職責について教えてください。
 
 1984年にAGC(当時:旭硝子)に入社し、当時あった国際部でアジアの海外プロジェクトを担当、管理業務や契約作成だけでなく、新プロジェクトの立ち上げ、技術輸出、プラント営業など、製品貿易実務以外は何でもやった。当時の旭硝子には、一つの部署に5年居ると必ず異動するという制度があり、数字に強くなろうと経理系に手を挙げて鹿島工場の原価計算に異動。その後、ちょうど創設された社費MBA制度でアメリカのダートマス大学のTuckビジネススクールに留学させていただいた。

 卒業後は、会社がアメリカのテネシー州のガラス会社を買収した直後なこともあり、そこに第一号の駐在員として赴任し、買収後のインテグレーションに取り組んだ。帰任後、ジョンソンエンドジョンソン(以下、J&J)、正確に言うと最後の方はプライベートエクイティファンド傘下の事業部で、20年以上勤務。J&Jでは、消費財、人工関節、製薬、診断薬の部門を経験。自分のキャリアの軸はファイナンスだと思っていたが、営業・企画もやったし、CFO、最終的にはRegionalのGMまで経験した。その最後の頃に事業部がJ&Jからスピンアウトしファンド傘下になったのだが、これは今にもつながるいい経験だったと考えている。

Q. MBA後にヘルスケア業界に進まれた理由は何ですか?また、どのような経緯で再びAGCに戻られることになったのですか?

 転職した時、そもそもヘルスケアを志向したわけではなく、当時(1998年)、長野オリンピックがあった年で、拓銀(北海道拓殖銀行)、山一(山一証券)、長銀(日本長期信用銀行)が相次いで破綻した激動の世の中だった。私が旭硝子に入社した当時の世相は銀行が就職人気ランキングの頂点に君臨し、盤石の会社だったはずが、そうした金融機関が倒産していった。そうした日本の激動をアメリカから見ると、「いよいよ日本はあかんな」と見えていたのだが、日本に帰ってみると、とても頭が良く、いい人ばかりの諸先輩方が、まずいと感じていたにもかかわらず、帰任してみると実際には会社は何も変わっていなかった。そんなころリクルーターから「J&Jに転職してみませんか」という声がかかり、当時MBAケースでやったタイレノール(J&Jの鎮痛剤)の薬害事件の危機対応のケースが印象に残っていて、呼びかけに応じることにしたのがJ&Jに入った経緯。

 前述のとおり、J&Jでいろいろな仕事を経験して、APACのゼネラルマネージャーのロールについて、ようやくここまで来たかと思った矢先、その事業がPEファンドに売却された。就任1年後、ある日突然本社から「J&Jはストラテジック・オルタナティブのスタディに入る」というアナウンスがあって、事業をどうすべきかいくつかの選択肢が提示された。責任者として、どうやって不安になっている社員を引っ張っていくかということに直面した。幸い、ファンドに売却ということになっても、事業の基盤もしっかりしていたので、社員がごそっと抜けてしまうこともなく、インテグレーションはつつがなく進んだ。

 しかし、そうはいっても事業会社とファンドの考え方は違った。私はJ&Jのour credo(我が信条)が好きで、それは顧客が一番、次に社員、地域社会と来て、最後に株主、という思想。ファンド傘下になっても、「僕のやり方は変えないよ」と言い続けてはいたが、難しい局面も多々あった。インテグレーションは順調に進んだと言っても、国によって規制当局との調整とか、システムの移管などもあって、3年はかかった。

 さすがに力を出し切ったなと思っていたところで、古巣のAGCから声がかかった。AGCはやはりいい会社で、毎年色々な集まりがあって、会社の中にいても外にいても分け隔てなく声をかけてくれた。自分が退職した時の社長が思い切った人で、MBA行った後に辞めた人を集めた飲み会をやった。そんな様々な繋がりがいろんなところで生きていて、「今度スペインで会社を買収するんだけど、戻ってきて経営者やらないか?」って言われたのがきっかけ。J&Jも社員の定着率は悪くなかったが、20年たって同じ顔触れがいるのは外資ではなかなかない話。

Q. 危機が迫っているのに行動を起こせない、「ゆでガエル」といえる状況で、当時だけでなく今も日本で起こっていることかと思うのですが、今振り返ってみると、「まずいと思っていても変えられない」ことの背景には何があったんだと思われますか?

 今振り返ると、「変えるのが怖い」だけでなく、変えてしまったときの将来がどうなるかが描けなかったのではないかと思う。いったん変わってしまえば、波に乗れると思うのだが。当時、楽天とか、新しい会社がどんどん興っていて、怖いものなんてないと思っていたが、守るべきもの、変えた時に困るものが多い。それをどう押さえるか、マイナスを少なくするかに志向が向いてしまっていたと思う。今振り返ると、90年代が日本の境目で、古いもの、ある意味で競争力のないものを守る選択を日本はしてしまったのではないか。ただ、AGCの場合は派手さはないがそれなりに変革をしてあの危機を乗り切ったと思う。化学品も大変な時代だったし、事業にしても無くなったものもあって、例えばブラウン管用のガラスは、世界の三分の一のシェアがあったのにあっという間に市場が消滅した。板ガラスも激動で、値段も急激に下落していった時代だった。

企業統合を円滑に進めるマネジメント

Q. 買収した海外企業のPMIだけでなく、製薬メーカーの生産拠点からCDMOへの業態転換までを、スピード感と成果を求められながらやり切るのは並々ならぬ困難かと思います。(私の経験上、最初の統合のプロセスだけで数年で消化してしまうような事例も多いと思います)どのような点を意識してマネジメントをしてこられましたか?

前述の買収したアメリカの会社の話しかり、J&J時代の人工関節の会社をJ&Jにインテグレーションしたのもしかり、私のキャリアにとってPMI(買収後のインテグレーション)は普通の仕事だった。インテグレーションの色んなパターンを知っていたので怖くなかった。

それに、直近が逆(インテグレーションされる側)のパターン。カーライルというPEファンドの世界では有名だが、一般的にはよく知らない会社に売却される立場になった。バルセロナの会社をドイツのBI(ベーリンガーインゲルハイム)製薬から買収したが、日本の製造業の世界ではAGCはみな知っているが、スペインだし、業種も違うし、どんな会社なんだろうとみんな不安に思っていた。逆の立場も経験していたのでその心情がとても良くわかった。

インテグレーションにおいて何に気を付けるかだが、まずリスペクトを持って相手と接する。「こいつらはだめだ」、「いうこと聞かないだろう」、みたいなバイアスを持ってはけない。人間として相手をリスペクトすること。

次は、判断することに時間をかけないこと。私がAGCに再び入った時、デューデリジェンスはもう終わった段階でバルセロナに派遣されたが、「このメンバーでいいか?」、「この会社でベースは大丈夫か?」みたいな判断には時間をかけず、ある意味直感で、「これならいける」と目星をつけて踏み出した。

また、会社としてどこに向かうかを最初に明確にした。ビジョン・ミッションはインテグレーションのDAY1に自分で設定して、ほどなく現地のメンバーも含めてマネジメント合宿をジローナ(バルセロナ郊外の風光明媚な古都)でして、そのビジョン・ミッションの達成に至る5年のロードマップをみんなで策定した。本社からAGCの社長が来た時、「どうしてこんなにインテグレーションがうまくいったのか?」という問いかけがあったが、現地のディレクターは「AGCは我々にリスペクトとホープをもたらしてくれたからだ。」と言ってくれた。

Q. 門倉さんにとって、米国での経験がインテグレーションの原体験といえるかと思うのですが、特に記憶に残っていることはございますか?

 米国のPMIで覚えてるのは、Tuck MBAでめちゃくちゃ勉強して、次の仕事がアメリカの会社買収、自信満々で行ったら、すぐにその自信は粉々に打ち砕かれた。買収した会社というのが、ある起業家が地場のガラス会社を何社も束ねた会社で、大企業のAGCとは違う、とても個性的な人たちだった。営業のやり方も、モノづくりのやり方もトップの会社のAGCとは別物で、「同じガラスでこんなに違うんだ!」と思った。

 それが悪いというより、「なぜこれで成り立つのか?」と興味を持った。つまり、これも一つのリスペクト。見ると、設備も軽装備、社内制度もオーガナイズされていない。しかし、「一般建材用のガラスって実はこれでいいんじゃないか?」と思った。AGCだと、同じ窯で、高精度の車用ガラスも、それなりの精度の建築用ガラスも作っていた。しかし、建築用だったらその品質は要らないのではないか、家の窓に使うならそれで十分でないか?、と思った。彼らは設備の負担も、オーバーヘッドのコストも軽い。全然違うけど学びがある、そこから学んだ。

 相手をリスペクトして謙虚に学ぶことがとても大切。会社があったのはテネシーの田舎で、MBAのクラスメートから赴任地が決まると冷やかされた。実際、工場長と話しても南部弁が強く英語が通じなかった。3か月してやっとお互い相手が何を言っているかわかるようになって、「ところで、最初僕の言ってることってどうだった?」と聞いたら、「正直全然わかんなくて、でも悪い奴でないと思った」と言われて、「僕もだよ」と二人で大笑いした。この会社のやり方でいける、と判断したし、日本品質のやり方を押し付けようとは決して思わなかった。

Q. スペインとの文化の差は、特に働き方(オペレーションや製品の品質に対するこだわり)やコミュニケーションスタイル(物言いのダイレクトさ等)に現れるのではないかという気がしています。買収・PMI・事業の転換を進められる中で、どのような文化の違いが最もチャレンジングに感じられ、それをどのように乗り越えられましたか?

正直文化の違いを感じることはあまりなかった。幸運にも、もともとこの拠点はドイツ企業だったので、トップファーマのレベル感でグローバルスタンダードな働き方をしていて、マーケットもスペイン国外を相手にしていた。コミュニケーションもマネージャー以上は全員バイリンガル。

むしろ苦労したのは会社の外で、許認可を取るとか、政府相手の仕事はステークホルダーも多いしとにかく煩雑だった。スペインってデジタル化が進んでる割には昭和的な制度が残っているように感じる。強いて言うと、スペイン人はとにかく話すのが好き、たくさん話すけど結論がはっきりしないことがある笑。

後半では、マネジメントの仕事の本質と、若い世代へのアドバイスについて伺いました(↓)

1門倉さんについて 2マネジメントの仕事の本質

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