インタビューの趣旨について
私たちIESE日本人在校生は、自分たちのキャリアだけでなく、将来のビジネスリーダーとして日本の未来のために何ができるか考えていきたい、また日本の皆さまにも考えるきっかけを作りたいと考えています。そのために、ビジネススクールの教室での学びだけではなく、日本各地で新しい価値、社会へのインパクトに取り組まれてる方にお話を伺い、発信していきます。
今回は、Class of 2025の一人の出身地である富山県で、様々な事業に取り組まれる中谷さんの活躍を耳にし、事業承継、地方活性化、アグリテック等に関心のあるIESE生4名でインタビューさせて頂きました。
中谷さんのご紹介
中谷 幸葉(なかや こうよう)さん。1992年、関東地方に生まれる。早稲田大学卒業後、大手金融機関にて営業職、M&A仲介を勤めたのち、A-TOM青井社長に触発され、青井社長が富山県に設立した会社にIターン転職。同社にて富山にて新規事業のプロデュースに従事。また、富山県に移住後、さらに富山県射水市の築100年の古民家に移住し、地域の課題解決に取り組むコミュニティである一般社団法人「とやまのめ」を設立。コンサルティング、アグリスポーツなど地域を活性するさまざまな事業に取り組まれる傍ら、2024年4月、富山県で唯一のスプラウト農家を事業承継。
富山県への移住について
Q. これまで縁もゆかりもなかった土地で事業を行う中で、どのような課題に直面されましたか?また、どのようにそれを解決されましたか?
まず、なぜ富山という土地を選んだかというと、実は場所にはこだわりはありませんでした。自分の夢に近づけるか、チャレンジングか、そして誰と一緒に仕事をするか、が自分の挑戦の判断基準だったんです。前職のつながりでA-TOM(地方の空き家有効活用に取組む不動産事業者)の青井社長に出会い、A-TOMの子会社でTOYAMATOという冨山市の街づくりを推進する企業への参画は自分の判断基準がすべて満たされ、チャレンジできました。
直面した課題と言えば理想と現実のギャップでした。地方ならではの習わし、例えば古民家に住んだものの、近隣の住民から「何で挨拶がないんだ」等、苦言を呈されることがありました。そこでどうしたかというと、古民家の畑で作ったキャベツを持って100〜200軒挨拶して回りました。まるで選挙活動みたいでしたね(笑)。そこまで一通りやってみてやっと受け入れてもらえたのですが、皆、「関わりしろ」を待っていたことに気づきました。
Q.どういうきっかけでスプラウト農家を事業承継をされることとなったのでしょうか?
そうして地域の皆さんと関係を作る中で、お悩みの相談をいただくようになりました。地域の皆さんと何かやる中でソフトをまず作りそれからハードを作る、ということを私は考えていました。たとえば行政だと、どうしてもまずハコを作って‥となるのですが、私は人づくりから始めて、それからコトをつくることにしました。
東京の渋谷にあるグリーンバードという団体を参考にしました。グリーンバードは社会起業に近いのですが、「地域の掃除」をどんどん広げていった団体です。彼らは地区の掃除をかっこいいものにしたんです。例えば、東京ヴェルディと組んでロゴを作ったり、ホストクラブやキャバクラで働いている人たちが昼から渋谷の掃除をする。そうしたらメディアが食いついてきた。グリーンバードに参加すると、掃除が面白い、いつもはできない会話ができる、学びがある…それをやりたいと思って、コミュニティの場として「富山の古民家」を選んで、そこの片付け・草刈りからコミュニティを作りました。
集まってきたのは18歳から30代前半で一芸のある人たちです。100m走がすごく速い人、キャベツを作るために富山に移住した人、色々です。そうして地域に認められて、地域の悩みが集まる、誰かの得意が集まるようになり、アグリスポーツ(※)を始めたり、漁場を荒らすウニを捕まえて味をキャベツで育てるプロジェクトを始めたり・・・そうしたらある日、事業承継の話が出てきました。
(※アグリスポーツ:スポーツのように農作業をしながら食育を学ぶプログラム)
Q.大企業(メガバンク)での経験が活きていると感じることはありますでしょうか。
実をいうと全然生きなかったです!(笑) マネタイズの部分では多少、財務モデリングとかM&Aの知識とかは役に立ちましたが、どちらかというと学生時代、体育会で取り組んだ組織作りが役立ちました。組織作りにおいてはトップダウンじゃない組織、自立型の組織を目指しました。プロジェクトベースでそれぞれチームを作るのですが、みんなの夢を把握して、解決しようとしている課題とくっつけることで、みんなやりたいことだから自分でやって、勝手にどんどん進んでいく。こういうやり方は時代にフィットしていると思います。
自分一人だけの成功には意味がなくて、みんなの未来を作るために、どうやったら人を巻き込めるか、例えばただ農業をするのではなくて、その先どうつなげられるかを考えています。
Q. ソフトからハード、あるいはハードから入りがちなところをソフトから入る、という意識はどのようにして持たれたのでしょうか?
グリーンバードを見ていたのが大きかったです。あと伴走期間もありまして、メガバンクからの転職先であるTOYAMATOでも同じように新規プロジェクトをやっていました。そこではハードからアプローチするプロジェクトをやっていたのですが、ゼロから作りあげるのは大変で、特に、できたハード(お店、レストラン)に人を集めるのは苦労しました。
なぜかというと、もともと需要が限られていたところにハードを作ったからだったんですね。一方、きれいでない古民家でも人は来るし、マネタイズもできます。自分で実験したかったので、一人で古民家を活用した事業運営を始めた結果、大事なのはソフトだとわかりました。大企業から協業のお話もいただくのですが、大企業ほどソフトを求めていらっしゃいます。
Q. 冒頭で地元に受け入れられるためにキャベツを配って…という話がありましたが、どのようにして地元の若い世代にアプローチしましたか?
若い世代ですか?周りはおじいちゃんおばあちゃんばっかりでしたよ(笑)。そもそもどうしてそうなったのかというと、古民家に移住したことを地元の新聞でたまたまとりあげていただき、そこから「挨拶が…」で炎上しました(笑)。
でも、それは皆さんも地域活性化に向けて何かしたいと思っているからこその反応だと思っていて、地元住民として自分たちも巻き込んで欲しいということなんですよ。なので、地元の皆さんと関係を構築してからは一気に色々とやりやすくなりました。古民家周りの草刈りも手伝ってくれて、リタイヤして時間を持て余している方も多いので、とても強力なサポートになっています。が、一方でこういうところに若い方が来てくれた方がインパクトは大きいと思っていて、その呼び込みもしています。
草刈りの経験を通じて思ったのは、机上での議論だけではなく、みんなで何か一緒に体を動かしてやる、というのはチームビルディングとしてとても有効だということ・それによってその現場、地元への愛着も沸くし、当事者意識も生まれます。
自分が主宰しているコミュニティのメイン層は18-30歳ですが60代もいて、そうした(シニアな)応援団がここぞというところに出てきてくれます。「こういう人になりたい」と思えるような、いい意味で一丁上がってる方、背中で見せてくれる人もいます。
しかもそうした方は、サポートしていただけるだけでなく、若い世代から刺激を受けて事業したがるんです。例えば、元経営者の方がいらっしゃるのですが、「自分の持ち物を出品してオークションをやるぞ」ってなったら、日本中から参加者を300人集めてしまったので驚きました。
事業承継の課題や工夫について
Q.事業承継の中での課題にはどんなものがありましたか?またどうやってそれを解決されましたか?
スプラウト農家の事業承継のお話は、ギリギリの状態で相談が来ました。古民家の近くにある農家だったのですが、後継者がいなくてひっそりと廃業しようとしていました。そのスプラウト農家に関わっている銀行や会計士さんを含む関係者が、何とかしたい、富山県産のスプラウトを守りたい、立て直せる人はいないかという想いでの話でした。
その時、私個人としては、ちょうどN高みたいなイメージで「一次産業に特化した学びの場」を作りたいと思っていたため、興味を持ちました。なぜかというと、N高はとても成功していて、自分がN高と同じことをやってもしようがないと思ったのですが、N高でさえも一次産業についての学びは地域に任せる形でやっているので、N高のように意味のある教育コンテンツをベースにしつつ、富山で戦うとしたら、これしかないと思ったんです。もともと廃校を使った教育コンテンツの一つとして農業を組み込むことを考えていました。色々な取り組みを一つ一つ個別にやるのではなく、廃校全体を使ったプロデュースをという形です。しかし、(プロデュースという形だけだと)「自分って薄っぺらいな」と思ってしまって、自ら手を動かして農業法人をやりたいと思っていたんです。そこで来たのが、スプラウト農家の事業承継の話でした。
このスプラウト農家は、当時、経営者は70代、営業もかけてなくて、財務的にも損益分岐点を割っているという状態でした。そんな中でも、ここの立て直しはもう僕にしかできない、と思ってこの機会にベットしました。また、結果的にどこまでうまく出来るかに関わらず、(こんな困難に挑んだんだという)ストーリー自体が価値として自分に返ってくると思えたことも、決断を後押ししました。
そうして動き出した事業承継ですが、今まで仕事で関わってきたのはM&Aの「仲介」だけだったのですが、実際当事者になるとこんなに大変なんだ!と身にしみて理解しました。例えば、当時の社長との折衝では、会社を変えたいと考えている私と、会社をあまり変えたくないと考えている社長という構図で、意見がぶつかることもあり、密度の濃いコミュニケーションを毎日やっていました。あとは、こうもこの(農業の)業界に浸かった会社は難しいのか…ということも感じましたね。市場を通すか通さないか、市場を作った国からの圧力…そうした難題の落としどころをどう作るかをとにかく考えました。
例えば、(卸売)市場は通すが、その先にいるスーパーマーケットに直接営業して、「入り」(市場に卸す生産者としての自分達)と「出」(消費者に販売するスーパーマーケット等の小売事業者)を押さえて、真ん中(市場)との価格を調整したり、または新規販売先を自ら獲得することを条件に市場価格を頑張ってもらう等の交渉です。
事業が動き出してからのオペレーションは、副業として参加しているチームに動いてもらいました。農業生産をどう効率化するかという課題への答えの一つとして、人を内部で抱えないで、外部の得意な人に単発で頼むという形を取りました。例えば、営業は営業代行を使う、講演は元劇団員にパフォーマンスをしてもらう、等です。そして彼らに単なる副業ではなく、当事者としてコミットしてもらうことに、心を砕きました。ただ仕事を引き継ぐのでなくて、コミュニティを作って、そこに来たお悩みを解決するというマインドで取り組んでもらう。そうすると違う戦い方ができます。
Q.副業で参加する方を集めるときにどうモチベーション/当事者意識を持っていただけているのでしょうか?
夢と大義、その道筋をどう示せるかです。そうすれば、人はお金以外の理由で動いてくれます。副業で参加して頂く方に、夢を見てもらえるようにすることが、僕の仕事だと思っています。
Q.新しい人と会ったら、まずはどういう人となりかとか見極めてから仕事をお願いするということでしょうか?
はい、だからコミュニティを作ったんです。
Q.(仲介事業が多かったこれまでと比較して、スプラウト農家の事業承継後は)時間の使い方はどう変わりましたか?日頃はどういった時間配分をされていますか?
今はほぼ農業に使っています。典型的な一日だと、朝6:30-9:00まで農作業、そこから営業等をして、また空いている時間を使って15:00まで農作業、その後農作業以外の業務に取り掛かり夜遅くまで仕事をしています。大変ですが、でも好きでやっています。農業以外の学校向け事業やコンサル事業などに関しては、僕自身が農業にコミットすることを宣言して、他のメンバーに振って任せきっています。
Q.私の場合、人に仕事を振った後もその仕事が気になってしまい、上手く任せきれないのですが、任せきることができるのはコミュニティの中で任せることが出来る人を作っていったからでしょうか?それとも、気にはなるが腹をくくって任せているのでしょうか?
振った仕事をチームで推進してもらうことである程度安心して任せられています。仕事ごとにスリーマンセルを作って、三人単位でやってもらっています。三人なのは、たとえ仕事の方針で対立するようなことがあっても、残りの一人が仲裁できるからという理由と、一人リーダーを立てることでこぼれ落ちそうなタスクを拾ってもらえるという理由からです。コミュニティの仲間には、そういう役割を任せられる優秀なコンサルとかマーケティング出身者がいます。意外と地方では、そういう人材を持て余しているんですね。例えば大企業で働いていたけど、家庭の事情で移住してきて、こちらで別の仕事をしているケースなどです。そういった方々が、我々の活動を見ていると段々やりたくなってきて、最終的には当事者になってくれています。
それでも落ちる仕事や失敗は出てきますが、それで良いと思っています。銀行時代は失敗をしないでおこうと考えていましたが、フリーになった後は、失敗した方が関わっているメンバーの学びになるし、後々、他の方々にも語れるストーリーにもなる、そして極論ですが失敗しても死ぬわけでない、と割り切れるようになりました。
日本の地方の将来について
Q.日本の地方のポテンシャルをどう見ていますか?
地方では人も減って、空き家も増えています。そういった意味で変えるチャンスしかないと思っています。今やっているようなことと同じ事を東京でやっても何のインパクトもないが、地方であれば影響力が出る。そこに「覚悟」がのるだけで一人の青年が街を変えるということができます。
本気で社会課題に取り組み、大きなことを成し遂げたいと思うなら地方だと思っています。地方ならメディアも巻き込みながらそういったことが実現しやすい環境です。
Q.「覚悟」とはどういう意味でしょうか?
覚悟、とは「この土地に骨を埋める」ということだと思っています。
Q.話は変わりますが、富山への移住を決断するきっかけとなったA-TOM 青井社長の魅力はどのようなところにあったのでしょうか?
青井社長と知り合ったのは、前職時代の繋がりなのですが、いわゆる「社長」ではなくタレントという印象で、夢と希望にあふれていてひきつけられました。この人となら自分の夢に近づけるし、もっと大きい夢をみれるんじゃないかと感じ、東京くらい捨ててやるかと思いました。
Q.富山のために何ができるか?という観点で考えると、現在の民間からの貢献に加えて、公の立場(eg. 市長や市議会議員)から貢献するということも選択肢として考えられるが、その点はどうでしたか?
最終的に行き着く先は「公」っていうのはあるかもしれません。でも、たとえば市長になるとできないこともたくさんあると思いますし、何より今は民間のプレイヤーが足りていないと感じているので、まずは自分の取り組んでいる目の前のことをやり切ろうという思いです。
Q. 東京一極集中が叫ばれる中で、どういった地方都市が「地方覚醒」を成し遂げ、今後生き残っていくと考えているか?
地方覚醒の条件は、私はよく「イキイキの連鎖」と呼んでいます。街を変えたい若者のような、何かやりたいことを持ってイキイキしている人が何人集まるのかということです。そういった人が数人集まれば、それが連鎖し始める。そうやって、我々の周りでも60人までそういう人が集まりました。この一年を考えてみても、特に移住を推進する事業もやっていないのですが、勝手に移住者が5人増えました。よくある食や自然などの観光資源で人を引っ張るというよりは、イキイキした人がまた多くの人を惹きつけていくということだと思っています。
Q. せっかくのご縁なので、何か我々でお役に立てることはないでしょうか?
お申し出ありがとうございます。そうですね、例えば世界的な動きの情報、事例といったものをお持ちかなと思うので、コミュニティにその事例をシェアするだけで変わると思います。面白い団体が横でつながりだしたらコミュニティが変わります。
Q.そういう観点ですと、ある地域のコミュニティの成功事例が横展開される流れというのは作りづらいのではないでしょうか?
圧倒的に、「コミュニティマネージャー」と言える人材がいないと思っています。他のコミュニティの人を集めます、会議します、意見交換します、という機会は無数にあります。しかし、なぜそこから広がらないかというと、それぞれのコミュニティを深く理解して強みをつなげられるコミュニケーターがいないからです。
貴重なお話をありがとうございました。