インタビューの趣旨について
私たちIESE日本人在校生は、自分たちのキャリアだけでなく、将来のビジネスリーダーとして日本の未来のために何ができるか考えていきたい、また日本の皆さまにも考えるきっかけを作りたいと考えています。
今回は、アメリカへの音楽留学、フランスでのホームレス生活など波乱万丈の学生生活をすごしたのち、アフリカでのビジネスを志してフランスのESSEC Business SchoolにてMBAを取得後、現在はエチオピアで電動モビリティスタートアップ・Dodai Group, Incの創業者・CEOを務められる佐々木さんに「アフリカビジネス」、「バイタリティと経営者としてのマインドセット」というテーマでお話を伺いました。
佐々木さんについて
佐々木 裕馬(ささき ゆうま)
東京大学を入学数日で休学し、アメリカでの音楽活動(ご本人曰く”めちゃくちゃな生活”)やフランスでのホームレス生活の末に卒業、ENEOSにて石油開発事業に従事。ENEOS退社後は、フランスのESSEC Business SchoolにてMBAを取得。その後、ガーナのスタートアップに無給インターンとして入社。インターン開始から3ヶ月で250人の営業部隊を統括するポジションに就任。日本帰国後はUber Japanの営業本部長、電動キックボードシェアサービスを手掛ける株式会社Luupの副社長を経て、2021年Dodai(ドダイ) Group, Incを創業。2023年からエチオピアで電動モビリティ事業を開始。
佐々木さんのこれまでの経歴や、Dodai社については、こちらの記事にもまとめられています(外部サイト)
https://the-wave.xyz/africa/dodai-yuma-sasaki/
アフリカ発展の”土台”を作り、世界を変える-Dodai Group, Inc CEO 佐々木さんインタビューについて
Dodai社は、2021年に佐々木裕馬氏が設立したグローバルスタートアップで、米国デラウェア州に本社を構える。創業者の佐々木氏は、Uber Japanの営業本部長および電動キックボードのLuup社副社長という実績を持つ。2023年よりエチオピアを主要拠点に、アフリカ全土での電動モビリティ事業を展開中。
公式サイト
学生時代について
Q.学部生の時にアフリカに関心を持たれるきっかけだった「アメリカでのめちゃめちゃな生活」とはどういったご経験をされたのでしょうか?
もともと私は海外バックグラウンドが全くなかったのですが、音楽がやりたくて、東大入学後、数日で休学してアルバイトでお金を貯め、アメリカのオレゴンに行きました。英語が全く話せない中飛び込んで、現地のアメリカ人とシェアハウスをしながらバンドを組みました。そのシェアハウスがとんでもないところだったのと、1~2年で世界一のバンドになるという結果を出したかったので、半年で見切りを付けてロサンゼルスに移住しました。何とか生き延びながら音楽活動を続けたのですが、その間強盗にも遭いましたし、ニセ警察官にお金をだまし取られたりしました。しかし、毎日予想を超えてくる、なんでもありな世界に楽しさを感じたんです。
例えば、ロサンゼルスでお店に入ろうとしたところ、その店が混んでて入れなかったんです。困って立ち尽くしていると隣に金髪の女性がいて、日本人だというと、「仕事で日本に行ったことがある」と言っていたので詳しく聞いてみると、なんとLady Gagaだったんです。こういったことが向こうではよくあって、日本だとスター級のミュージシャンが路上ライブをやっている。驚きとともに、現地での生活を通じて自分の音楽の才能のなさを感じました。一方で、自分はこうしたダイナミックな世界が好きなんだということに気が付きました。
Q.どういったきっかけでフランスでホームレスをしてみようと思われたのですか?また、その経験は現在のビジネスを志されたことに影響を与えていますか?
ロサンゼルスから帰国し東大に復学したのですが、当時の僕は短パン&ポニーテールという異形の姿で、なんとなく東大のキャンパスにはおさまりの悪い感じがありました。ただ単に東大生をすることに物足りなさを感じて、何をしようか考えていたのですが、アメリカに行った時、語学が大事だと感じました。アクセスできる情報量が変わりますからね。そこで、英語の他に良く使われている言語は?と考えてフランス語を学ぶことにして、学科選択でフランス文学科を選びました。ある日、フランス語の勉強のために「ル・モンド」というフランスの新聞を読んでいたらフランスではホームレスが年間300人凍死するという記事を読みました。その現実を知りたいと思って、2月の一番寒さが厳しい時期に、パリに文字通り無一文で乗り込みました。一応、渡航前日にネットでテントを買って、未開封のまま持って行ったんですが、現地に着くとそのテントが夏用だったことに気づいて、それで寝てみたものの零度近い気温の中では全く意味がなく、午前二時くらいに寒すぎて目覚めてしまう生活を繰り返していました。
ですが、そうした生活の「攻略法」を見つけていくのが楽しかったんです。夜中に寒くて起きてしまうのであれば、夕方五時くらいに寝て午前二時に寒くて起きる。そこから3時間ほど歩き回って体を温めて朝五時くらいに開くメトロの駅に入って温まる。そんな感じです。お金はパリの中心部、オペラ座のあたりで物乞いをして恵んでもらっていたのですが、縄張り争いがあって、メトロの通気口の辺りは暖かい風が来るので人気でそこを取り合いました。そうしているうちにその辺のホームレスと仲良くなったのですが、そこでもドラマがありました。ホームレスにはいいホームレスと悪いホームレスがいるとわかったんです。アルコール中毒やドラッグ中毒のホームレスは他のホームレスと協力しないので、食べ物に困ったときはゴミ箱を漁るしかありません。一方で、協力的なホームレス、例えば3つオレンジを恵んでもらったら、1つは仲間と分ける、みたいな人は困った状況になっても仲間が助けてくれます。
Q. パリから空港、かなり離れていると思うのですが、無一文でどう移動なさったのでしょうか?
到着時のパリへの移動は何も考えてなかったのですが、徒歩で3日くらいと聞いていたので、時間だけはあるから歩こうかと画策していました。しかし、たまたま現地の人と知り合って、一緒にバスに乗せてもらいました。
Q. 帰国する際、ホームレス生活の後だと、例えば空港の警備に止められるかもしれないなどで難易度が高そうに思うのですがどうでしたか?
そんなことは全く考えなかったです。ホームレス生活をすると、世界の見え方が変わるんですよ。例えば、普通だと関わりたくないようなドラッグの売人みたいな人も、帰る家がどこかにあるという時点で富豪に見えてきます。それどころか、普通に暮らしていると警察に捕まって牢屋に送られるのは怖いことですが、むしろ(屋根付き食事付きの寝床になるので)生活レベルが向上しますからね。
Q.これら学部生時代の経験を振り返ってみて、どういった学び(身になっている、やりすぎたかなと思っている、等)がありましたか?
今までの人生でやりすぎたと思ったことはありません。子供のころから一貫して、自分の頭で考えて仮説を立てて、多少は周囲の意見を聞くがマジョリティの意見はあまり気にしないで自分が納得できる方向に進んでいくというタイプでした。自分で考えて判断しているので、後悔はありません。
Q.英語が話せないなかで単身アメリカに渡るなどのバイタリティはどこから来るのでしょうか?ご両親の教育や人との出会いなどがあればお聞きしたいです。
実は、自分でも良くわからないというか、自分では自分にバイタリティがあると思っていません。何か努力をしているという感覚はないです。だって、「バイタリティがある」って評価って、バイタリティがない人がある人に対して思うことじゃないですか笑。子供のころはやりたいことをやっていて、それで例えば学校の先生とぶつかって苦労しました。両親から特別な教育を受けたということはないのですが、ただ、私の自我を押さえつけずに自由にさせてもらったと思います。
Q.学生時代の佐々木さんのご活動を拝見すると、アフリカ赴任の可能性があるとはいえ、佐々木さんが新卒で日系大企業への就職をされたことが少し意外に感じたのですが、最初からアフリカに渡航して就職先を見つけよう、起業準備をしよう等は考えられなかったのでしょうか。
起業は全く考えていませんでした。今でも、ただやりたいことをしたいだけで、あくまでその手段として起業をとらえています。ファーストキャリアもあくまでアフリカに行けそうな手段として考え、総合商社や石油開発の会社に応募して、縁あって石油会社に入社しました。当時の私は(ストレートで卒業した場合と比べて)休学していたので4年遅れ、オールバック&髭のスタイルだったので、社内で先輩から呼ばれたあだ名は「部長」。見た目だけでなく、飲み会の集金で揉めた先輩に怒鳴り返したり、社長に直接「年功序列の廃止をしましょう」と申し入れて怒られたりしたので、「部長」と言われるようになりました。今でも年功序列というものに対していい感情を持っていません。
入社後、一貫してアフリカに行くことを訴えていたのですが、当時、いわゆるアラブの春が起きて、石油価格が下がったので投資を抑えるフェーズになっていたんですね。それで見切りをつけて、外資、つまりアフリカにある海外資本のスタートアップに行こうと思いました。けれども、現地の人が持っていない何かを持っていないと、ポッと出の日本人は雇ってもらえませんよね。自分は語学もできないし、現地の情報でも勝てない、何か特殊技能があるわけでもないとなると、じゃあMBAだと考えて、借金をして留学することを考えました。特にアフリカに影響力の強いフランスの学校を3つくらい受けて、そのうち返済不要の奨学金がもらえたESSECを選択しました。まずスタート地点に立つ、そのためにMBAが必要で、スタート地点にさえ立てれば勝てる可能性があると自信がありました。そういうわけで、MBAではネットワーキングばかりしていたので、いまだにアカウンティング等は苦手です笑。
MBAでの経験について
Q.MBAで最も苦労した経験をご教示いただけないでしょうか?
2つあり、一つは語学力の課題でした。ビジネスで英語を使った経験がなかったので、単語一つとっても良くわからず、周囲と語学力の差を感じました。
もう一つはどれだけ我を出せるかという課題で、IESEもそうだと思うのですが、みんな言いたいことをガンガン言いますよね。それに最初は圧倒されました。
一方、それによって我が強いメンバーをまとめる力が付きました。1つ目の課題の英語が、3~4か月して耳が慣れてくるにつれて何を言っているか理解でき始めると、口が達者な同級生が、実は大したこと言ってないというのに気づいたんです。なので、周囲に発言を促して、機を逃さずに、正しいタイミングで、正しいことを言ってチームの意見をまとめるスキルが身につきました。また、チームワークも3~4か月同じメンバーでやってると慣れてきますよね。日本人は一人一人のキャラクターを把握する力が強いと思います。この人はロジカルな人、この人はエモーショナルな人、とキャラクターを理解して、誰がキーマンで、その人をどう押さえるのかというスキルも身につきました。
また、ネイティブな英語では全然ないけどもリーダーとして素晴らしくて、誰もがその人の話を聞きたい方、例えばアリババのジャック・マーのような方っていますね。そうした方のスピーチを見て、英語の流暢さではなくリーダーシップと胆力が大事だと学び、自分の強みを活用して立ち回ることを意識しました。
Q.ガーナの外資・太陽光発電スタートアップに、半年間無給、成果でなければクビ、という過酷な条件でインターンとしてジョインし、わずか3か月間で成果を認められ経営陣に抜擢されたと伺いました。そのような圧倒的な成果を出すために工夫されたこと、やっていてよかったことはございますか?
まず、マインド面では自分ほど覚悟を決めてやっている人はいない、不退転の決意だという自負がありました。当時本当にお金がなく、借金もあったので、元の会社の同期に頼み込んで半年分の生活費100万円送金してもらい、ガーナのゲストハウスで生活しながら働いていました。朝6時前から深夜1~2時まで働いてゲストハウスに帰って寝るという生活をしていたのですが、同じゲストハウスの宿泊者から、誰も姿を見たことのないという意味で「ゴースト」というあだ名をつけられていたことを後で知りました。
仕事の面では、幸運だったことに役割はセールス(未電化地域に太陽光発電を売り込む)で、営業をマネジメントしつつ自分も営業するプレイングマネージャーだったため、わかりやすい成果として数字が見える仕事でした。営業の経験自体はなかったのですが、営業やチームビルディング、人の採用といった部分は才能があったみたいで、それほど努力せず成果が出ました。逆に、戦略や財務などのコーポレートの仕事は本当に苦手です。
もう一つの成功の秘訣として、その外資スタートアップの経営陣は、ガーナ国外にいる、トップ校のMBAを出ているようなザ・エリート。月給2~3万円くらいで働いていて、雇用の保証もないローカル社員と分かり合えるはずがありませんでした。自分はその間で橋渡しをできる人材でした。経営陣のやりたいことをローカルの社員に実行してもらいつつ、ローカルの社員の意見を聴いて経営陣と喧々諤々議論する、そうすることで経営陣・ローカルの両方から信頼を得ることができました。ゴーストと呼ばれるくらい昼夜もなく働き、売り上げの数字も爆発的に伸ばしたので、ローカルの社員に指示を出したとしても、誰も僕に文句を言いませんでした。
結果的に、6か月で成果が出れば~という条件が、わずか3か月でトップマネジメントとして採用されました。トップマネジメントに就任できた理由はもう一つあって、ものすごく不利な条件での契約でしたが、「せめて、採用するとなったら一社員からでなく、マネジメントとして採用してほしい」と条件をつけていたのが功を奏しました。
Q. 壮絶な話ですね。しかし、文化も違うガーナで、プレイングマネージャーとして営業で実績を上げていくというのは可能なものなのでしょうか?
音楽留学のために明け暮れたバイト時代、仕事を選べなかったので家電の販売員、居酒屋店員、いろんな仕事をしました。その時の経験から、どんな人が来てもどういう人かを見極めどのように話をしていくかというセンスも身に着けていましたし、バイト先の人から音楽留学の夢を笑われたりした経験から、断られたり否定されるのは慣れていたんです。そうしたスキルを下積みにして、日本のゴリゴリの営業会社のようなスタイルで動き回っていたので、アフリカだろうが営業数字を積み上げていくのは難しいことではありませんでした。
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